教育、学び、そして学校 〜 115

公開: 2024年6月2日

更新: 2024年6月2日

注 115. 自分に与えられた役割の自覚

1990年代の後半に、米国社会に普及したインターネットと、それを活用した電子商取引などによって、世界の経済はそれまでの経済システムとは大きく変わりました。特に、インターネットの普及によって、商取引が地理的な制約を受けなくなり、経済競争の規模が拡大されました。それは、多くの企業にとって、事業機会の拡大であるとともに、事業リスクの増大ももたらしました。これによって、GAFAと呼ばれたような世界的な大企業も生まれました。

日本の企業も、その世界規模の経済競争の中で、生き残ってゆくためには、世界の市場で活躍できる人材の獲得が重要になっています。インターネットの利用が可能な分野においては、「勝ち組」と呼ばれる世界の一握りの企業が、特定分野における経済競争を支配し、『勝者総取り』と言われるような、独占的な立場に立つ例が増えています。その商社の仲間に入るため、企業には、「世界的な頭脳」が必要不可欠なのです。

先進諸国では、そのような世界的な才能の持ち主を育て、世界で活躍できる人材として経験を積ませて、世界の舞台で活躍できるようにするための育成ブログラムを組み、対応できるようにしています。日本社会にも、そのような才能を持つ人材は、生まれているのでしょうが、その育成に成功した例は、知られていません。その原因には、日本の教育システムの問題や、教育制度の問題が隠れていると思われます。

20世紀後半の米国社会における研究では、社会の発展に貢献できる人材には、記憶や思考などの知的認知能力の高さよりも、自分に課せられた社会的役割や、自分の果たすべき社会的使命を認識し、天職としての自分の仕事の遂行に力を尽くす意欲の方が重要であることが分かってきました。この能力は、狭い意味での教育によって養成されるものではなく、幼少期からの「しつけ」や、日々の生活習慣によって身につくもののようです。

近代の社会であれば、「育ちの良さ」や「生まれの良さ」と言われていたような、裕福な家庭に生まれ、社会への奉仕の精神や、「正しく生きる」ことの大切さを教えられてきた人々に共通する行動の特徴を備えているかどうかが問題になります。社会のリーダーとして、数多くの人々を正しい方向へ導き、社会を良くする人材には、そのような素質が必要だと考えられているのです。その意味では、現代の日本社会の教育現場では、江戸時代の士族階級に対する教育と比較しても、そのような将来のリーダーを育成するための教育がされているとは言えません。

参考になる資料